演歌を楽しめる初めてのスピーカー。
では、KOI Tigerは演歌用スピーカーか? もちろん違う。オールラウンダーだ。クラシックよし、ジャズよし、ロックよし、ボーカル(洋楽)よし、そして演歌よし。この最後がポイント。
演歌の再生ほどむつかしいものはないからだ。クラシックもジャズもボーカルも、その再生は演歌に比べたらたわいないもの。楽器は “らしく” 鳴ればいいんで、ボーカルも洋楽は楽器の一種。適当に再生できればそれなりに楽しめる。
そうはいかないのが演歌だ。タンノイもダメ。クオードもダメ。スピーカーで演歌は聴けない。演歌を聴けるのはスタックスのヘッドホン(これは最高=自然そのもの)しかない、とあきらめていた。それが、KOI Tigerと出会い、はじめて演歌を楽しめるようになった。
香西かおりの微妙なコブシ(雨酒場)、三笠優子のハリ(夫婦舟)、美空ひばりのタメ(奥飛騨慕情)、牧村三枝子の話し声ともつかぬ歌声(友禅流し)、宮路オサムのだみ声(風来ながれ唄)、等々。日本語であり、地声であり、人の声である。楽器ではない。その不規則で極端に跳躍する周波数や倍音やタイミングの複雑なスペクトラムをKOI Tigerは見事に空間に解き放つ。このスピーカーはマイクにしか見えない。歌手は少し離れて、このマイクに向かって歌っているようだ。スイングし、まるで生きてそこにいるかのように。その音にデフォルメ(演出)は感じられるが、ディストーション(歪み)はない。
むせび泣くテナーの名手スコット・ハミルトンとバディ・テートが左右で掛け合うBack to Back。その実在感ときたら。似ていながら二人微妙に違うテナーの音色と息づかい、そして楽器の動きがスピーカーを超えて眼前に展開する。4 hero の loveless。弦バスのオクターブ下まで達する重低音が部屋を揺るがし、Ursula の繊細な朗読が宙を舞う。Zenbient の読経はヘッドホンで聴く以上になまなましい。スタインウエイを一撃する大西順子のピアノ(大西順子ピアノトリオ“クルージング”)。ルー・タバキンの超絶テナー。五嶋みどりのバイオリンには力が漲る。グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲はシャープでかつまろやか。そこにはピアノがあり、スピーカーは存在しない。そして、ピンクフロイトの原子心母。5曲め “アランのサイケデリックブレックファスト”を聴いてみるといい。透明人間が目の前を歩き回り、あるはずのないドアをバタンと閉める。ジュージュー・パチパチと目玉焼きから油が飛び散ってくる。
こうして KOI Tiger を愛聴する毎日である。音楽を再生する良心に出会い、リーズナブルな価格で提供されることに感謝しつつ。
(2009/04/04 近藤 良 形象派美術協会 審査委員長 六本木 良クリニック 院長)
近藤邸のクオードの前にKOI Tiger、クオードの後ろにはタンノイも見えます。



